犬飼六岐先生メールインタビュー「仲間やライバルと大いに競い合い、競い合った以上にひとと助け合える人間に」
戦後間もない1946年におこなわれた日本のそろばんとアメリカの計算機の対決。公式note「深堀り!そろばんの歴史」コーナーにも記事を掲載しています。
この計算試合を題材にした小説『ソロバン・キッド』が昨年12月に刊行されました。
このたび、『ソロバン・キッド』の著者である犬飼六岐先生に、計算試合を主題にとりあげた動機など作品についてのインタビューにお答えいただき、そろばんに打ち込む子供たちへのメッセージをいただきました。
(聞き手:珠算教育研究所 島岡成紀)
主人公がどんな人間で、どんなふうに試合に臨んだかを読んでもらう話にしたかった
──『ソロバン・キッド』をとても楽しく拝読いたしました。電気計算機とソロバンの計算試合を作品の主題として取り上げられた動機などをお伺いできますか。
犬飼六岐先生(以下「犬飼」) ありがとうございます。楽しめたと言ってもらえるのは、やはり一番うれしい感想ですね。
この作品では、戦後に実際におこなわれた米軍兵士と逓信省職員の計算試合を題材にしています。ごく大雑把に言うと、コンピューターの原型と人間が戦う話です。
いまわたしたちが直面している深刻な問題のひとつに「AIと人間の関係性」があります。あくまで構想なのですが、これをテーマに過去・現代・未来と、社会の状況や主人公の視点を変えて、いくつか作品を書きたいと考えています。
ひとは人間の力を超える便利な道具をつぎつぎに生み出してきましたが、その道を突き進んでいった先にあるのは、はたして人間らしい暮らしなのか?『ソロバン・キッド』を出発点として、そういう問いかけができる作品を書いていければと思っています。
──小説の前半である第一章は、戦前の日活村に暮らす主人公の少年時代の生き生きとした描写が印象的でした。
犬飼 クライマックスとなる計算試合は主人公が大人になってからの出来事なので、その周辺を膨らませてひとつの物語にすることもできました。たとえば組織内の人間関係の軋轢や幹部の権謀術数、日米間の事前の駆け引きや盤外戦術などなどですが、わたしはこの作品をそうした面白さで読ませる話にしたくないと思いました。むしろ試合の勝ち負けさえ重要ではなく、主人公がどんな人間で、どんなふうに試合に臨んだかを読んでもらう話にしたかったのです。
第一章で計算試合とは関係のない少年時代を描いたのは、そういう理由からでした。だれしもそうでしょうが、主人公の迷いも決断も不安も勇気も、やはり子供のころから積み重ねてきた経験のうえにあります。それを読者にわかってほしかった。べつの言い方をすれば、決してヒーローではない主人公のとくに「迷い」や「不安」の部分をたんなる人間の弱さと捉えてほしくなかったとも言えるでしょう。
ちなみに少年時代の舞台を日活村にしたのは、わたしが子供のころから映画好きなのと、まったく世代がちがうのに、なぜか原節子さんのファンだったからです。戦前から戦後にかけてのいっとき、こんなテーマパークを住宅にしたような夢みたいな町があったのですね。
資料に目を通しながらあれこれイメージを膨らませているときが一番楽しい
──登場人物が脇役にいたるまで存在感を持って描かれており、それぞれの人物の作品に描かれていない人生までが頭に浮かびます。わたしは第二章に登場する寡黙な上司・工藤課長が特にお気に入りです。
犬飼 作家によってそれぞれ流儀があるのでしょうが、わたしはだれか一人の人物をモデルにして登場人物を造形することはありません。身近な人物をモデルにするときも、容姿や性格、口癖などもふくめ て、必ず複数のひとの特徴を組み合わせて造形するようにしています。
ただ今回の作品では、めずらしく一人の特徴が色濃く出ている登場人物がいます。主人公の少年時代の親友の慎吾です。モデルはわたしの小学校低学年のころの同級生で、わたしがアマガエルを捕まえて遊んでいると、ちょっと待ってろと言って、トノサマガエルを捕まえてきてくれるような、真っ黒に日焼けした元気ですばしこい子供でした。
──クライマックスは目の前で実際に試合が繰り広げられているかのような迫力と臨場感でした。特に最後に主人公が秘技を使う場面は、ソロバン競技を知っているものなら「ここで、こうきたか!」と拍手を送りたくなります。
犬飼 計算試合の場面については、NHKアーカイブスに短いけれど音声付きの映像が残されていたので 助かりました。でなければ、舞台上の選手や審判員の配置などは空想で書くしかなかったので、リアリティを出すのにかなり苦労したと思います。また試合の内容や経過については、いくつか資料を掘り起こしたのですが、それらの資料間で勝敗やタイムに食い違いがあり、より正確だと思われるほうを参考に場面を書きました。
今回にかぎらず、当事者の日記や証言などでも間違いや誇張がふくまれるのはよくあることなので、資料はできるだけたくさん集めて照らし合わせる必要があります。編集者さんにもご苦労をおかけするのですが、資料に目を通しながらあれこれイメージを膨らませているときが一番楽しい時間でもあります。
トップレベルの選手のスピードとテクニックは想像もしない凄まじさで、度肝を抜かれた
──現代でもたくさんの子供たちが珠算塾で技術を磨き、全国各地でおこなわれているソロバンの試合に挑んでいます。毎年8月8日には「そろばん日本一」を決める全日本珠算選手権大会が開催され、子供から大人まで大勢の選手が日本一を目指して競い合っています。
ソロバンに取り組む子供たちに向けて、犬飼先生からメッセージをお願いいたします。
犬飼 主人公が土壇場で使う必殺技は、参考のために見た珠算大会の動画からヒントを得ました。わたしも子供のころにソロバンを習っていたのですが、トップレベルの選手のスピードとテクニックは想像もしない凄まじさで、ほんとうに度肝を抜かれました。
これは大会を目標に努力している子供さんたちには励ましになるかどうかわかりませんが、ひとつの考え方として聞いてください。100人が出場する試合でも、1000人が出場する試合でも、10000人が出場する試合でも、優勝するのは1人です。当然ながら、残りの99人や999人や9999人は負けます。ということは、ほとんどの人間にとって大切なのは、優勝インタビューでなにをしゃべるか考えておくことより、負けたときにどう振る舞うか、あるいは負けとどう向き合い、その経験を今後にどう生かしていくか、なのです。目標に向かって努力することはとても大切です。また、結果が出たときに一喜一憂するのはあたりまえの感情です。みなさん、どうかそうした経験からさまざまなことを考え、感じ取り、身につけて、心を豊かにしてください。仲間やライバルと大いに競い合い、競い合った以上にひとと助け合える人間になってください。
──『ソロバン・キッド』は、大人だけでなく、子供たちにもぜひ読んで欲しい作品です。インタビューにお答えいただきありがとうございました。
犬飼 こちらこそ、拙著にご興味を持っていただきありがとうございました。全国珠算教育連盟のますますのご発展と皆様方のいっそうのご健勝とご活躍を心よりお祈りいたします。