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「あんざん」には「暗算」と「諳算」の二つの表記がありました

そろばんを習うと身に付く珠算式「あんざん」は、頭の中でそろばん珠を操作して計算します。
このように、紙に書いたり計算器具を使ったりせずに頭の中だけでおこなう計算のことを「あんざん」と言い、漢字で「暗算」と書きます。現代の日本では日常的に馴染みのある言葉ですが、明治から昭和の初め頃にかけては「諳算」という表記も混在して使われていました。
「暗算」に統一されたのは戦後からですが、それでは、いつ頃から「暗算」という表記が使われたのでしょうか。また「諳算」という表記はどのように使われていたのでしょう。

(日本そろばん資料館 島岡成紀)


「暗算」は明治時代になって日本で作られた用語で、江戸時代は「胸算」という言葉が使われていました。中国語(北京語)では「心算(シンサン)」と言います。
「もともとは『諳算』と書いていたが『暗算』と書くようになった」と言われることがありますが、実際は、明治5年の学制発布後まもなく文部省から公布された「小学教則」第八級「算術(サンヨウ)」にも、すでに「暗算」の表記が見られます。

「小学教則」(文部省・明治6年刊)国立国会図書館デジタルコレクションより

…只其題ノミヲ盤上ニ出シ筆算ト暗算トヲ隔日練習セシム
暗算トハ胸算用ニテ紙筆ヲ用ヒス…

上の引用画像の右ページ「単語読方(コトバノヨミカタ)」に「諳誦」という表記があることから、「暗」と「諳」の字は使い分けられており、頭の中での計算をあらわす言葉としては「暗算」という表記が使われていることが分かります。

また、明治25年に刊行された「日本大辞書」、明治30年に刊行された「日本新辞林」の「あんざん」項目の漢字表記も「暗算」です。

「日本大辞書」(日本大辞書発行所・明治25年刊)国立国会図書館デジタルコレクションより
「日本新辞林」(三省堂・明治30年刊)国立国会図書館デジタルコレクションより

以上のように、「あんざん」という用語が日本で用いられ始めた当時から、「暗算」という表記が使われていました。並行して「諳算」という表記も使われましたが、戦後は「暗算」に統一されました。
「暗」の字に「くらい」という意味があり、消極的、否定的な意味合いが感じられること(実際は「暗」には「かくれていて見えない」の意があり、「暗算」はこの意を当てて作られた用語です)、「諳算」は「そらんじて計算する」ということで、珠算式暗算の特徴をあらわすのに適しているなどの理由から、「諳算」という表記は昭和の初期まで、特に珠算指導の現場で好んで使われることが多かったようです。

安倍元章先生が昭和14年に執筆された「ゴンベンかヒヘンか」というエッセイには次のように書かれています。

ご承知のとおり珠算式アンザンはソロバンを使用する代わりに,脳裡にソロバンを思い浮かべて(略)単に諳んじてやるからこれは諳算で,一方普通数学でいうアンザンすなわち筆算式アンザンは(略)数理の応用によって合理的に心算するので(略)暗算ということになります。(略)したがって私は自分の畑でやるアンザンはつねにゴンベンのほうを使っています。

安倍元章著「数とソロバン」(珠算研究社・昭和17年刊)より

今ではほとんど使われなくなった「諳算」という表記が、明治時代から「暗算」という表記と並行して用いられ、特に珠算式暗算をあらわす言葉として昭和に入っても使い続けられていたことをご紹介いたしました。

写真は日本そろばん資料館に所蔵されている珠算式暗算導入用の器具です。頭の中に珠をイメージできるようそろばんをかたどって作られており、珠は動きません。